「やがて哀しき外国語」をめぐる冒険
本当のところは村上春樹の「1Q84」が、スティーヴン・キングの影響をこんなにも受けているのか、と言うところをキングファンならではの妄想気味に語ろうと思っているのだが、「1Q84」自体があまりにも長大な物語なので、ちょっと尻込みしたりしている。三巻目も出るみたいだし・・・・。
そんな中、最近のわたしは村上春樹のエッセイを再読したりしているのだ。
思うのは、村上春樹のエッセイの根底にあるのは「理不尽な出来事に対する怒り」である、と言うこと。
例えば、2009年のエルサレム賞受賞の際のスピーチなんかを聞いても、根底に流れる怒りを感じる事が出来る。
閑話休題。
今日は「やがて哀しき外国語」(1994)に関する余談であった。
一応、村上春樹はスティーヴン・キングファンだと言う事になっている。
そして村上春樹の「やがて哀しき外国語」には、「スティーヴン・キングと郊外の悪夢」と題するエッセイが収録されていることから、キングファンの目に留まりやすいエッセイ集だと言える。
当の「スティーヴン・キングと郊外の悪夢」は、1991年にニュージャージー州プリンストン在住のアン・ヒルトナーと言う女性が、キングが自宅に侵入して自作原稿を盗んだ上、自分をモデルにして「ミザリー」を勝手に書いて発表した、としてキングを告訴した事件と、キングの自宅と事務所に侵入したエリック・キーンの事件を、当時プリンストンに居住していた村上春樹が、件の事件とアメリカの郊外にひそむ恐怖をエッセイにまとめたものである。
まあ、このエッセイはキングの名前がタイトルに入っているだけなので、----もちろんキングの話題が満載だが----、そんなに深く考える必要はないのだと思うのだが、興味深いのは、同書に収録されている「大学村スノビズムの興亡」と言うエッセイである。
同エッセイの概要は、「郷に入らずんば郷に従え」的なコンセプトをスノッブ的観点(環境)から俯瞰している非常に興味深いエッセイである。
そのエッセイにこんな一節がある。
でもこの国では(少なくても東部の有名大学ではということだが)、バドワイザーが好きで、レーガンのファンで、スティーヴン・キングは全部読んでいて、客が来るとケニー・ロジャースのレコードをかけるというような先生がいたら----実例がいないのであくまで想像するしかないわけだが----たぶんまわりの人間からあまり相手にされないのではないだろうか。相手にされないということは、つまり家に招いたり招かれたりという大学社会内交際からはみ出すということで、そうなると現実的に大学で生き残っていくことは、学者としてよほど優れた実績をあげていないかぎり、かなりむずかしくなるだろう。そういう見地からすると、アメリカという国は日本なんかよりもずっと階級的な身分的な社会なのだろうという気がする。
ここで村上春樹が言っているのは、キングを全部読んでいるような大学教授や講師たちは、大学社会内交際からはみ出してしまう、つまり、「あぁ、あの人は僕らと住む世界が違うのだ」と他の教授らに思われてしまう、のではないか、と言うことである。
そしてキングファンとして気になるのは、当時の村上春樹は自分の事を暗に、バドワイザーが好きで、レーガンのファンで、スティーヴン・キングは全部読んでいて、客が来るとケニー・ロジャースのレコードをかけるというような先生、ほのめかしている点である。
どうでしょう。
村上春樹はキングファンと言うことに合点していただけましたでしょうか。
村上春樹のエッセイは、小説以上に面白いこともあるので、機会があれば是非読んでいただきたいと思う。
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