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2009/12/07

「タッチ」と「骨の袋」をめぐる冒険

今日は「タッチ」「骨の袋」に関する余談。

何故こんな話を書いているか、と言うと12月5日に酒を飲みながら日本映画専門チャンネルで映画「タッチ」をたまたま見ていたら、もしかしたらスティーヴン・キングの「骨の袋」とひっかけてアカデミックな考察が出来るんじゃねーの、と思ったから。
映画「タッチ」のレビューはこちら

昨日「骨の袋」のレビューをエントリーしたのも、今日のエントリーの伏線、と言うことです。

わたしは、あだち充のマンガ「タッチ」を少年サンデーで読んでいる。
つまり、連載第1回目からずっと読んでいる、と言うことである。

従って、達也と和也、そして南ちゃんの能天気な日々を能天気に楽しんでいた訳である。
そして、和也の突然の死。

あだち充の野郎、とんでもないことをしやがったな!

そう、わたしたち読者は、和也の死の時点で、達也と和也、そして南ちゃんが生まれた頃から現在までの全ての出来事を知っており、そのため読者の心の中には彼らの人生が既に存在している訳なのである。

そこでわたしははたと気付く訳である。
何故この物語のタイトルが「タッチ」であるのかを。
何故「カッチ」ではなく「タッチ」だったのか、を。

あだち充の野郎、最初から和也を殺す気だったんだな!

つまり、「タッチ」の物語は、和也が最初から物語の途中で死ぬことを設定されており、あだち充は読者に対し、和也のキャラクターに感情移入させることに腐心しているのだ。

あだち充の野郎、血も涙もないのかよ!

寒気がした。
物語を作るためにはこんなにも冷徹な心が必要なのか、と。

ここで思い出すのはキングの「骨の袋」

先日のエントリーで紹介したように、キングの「骨の袋」の物語は、最愛の妻に先立たれたベストセラー作家マイク・ヌーナンが湖畔の別荘(セーラ・ラフス)で体験する、過去の街ぐるみの犯罪と、その犯罪の被害者で ある死者の、現在における復讐劇を縦軸に、マイクが属している出版業界の内幕や、マイクが体験するライターズ・ブロック、そして淡い恋心、また今回の出来事を手記としてまとめたマイクが感じるフィクション中のキャラクターの安易な死に対する責任を、−−おそらくこれはキング自身の考えであろう、−−明示する作品に仕上がっているのだ。

キャラクターは記号でしかない、と言う考えもあるだろうし、フィクションはフィクションに過ぎない、訳だが、物語をすすめるために、物語を盛り上げるために、登場人物に影響と動機を与えるために、安易にキャラクターを殺すことについて、考える時期に来ているのかも知れない。

余談ですが、ピクサー・アニメーション・スタジオの「カールじいさんの空飛ぶ家」では、冒頭に、主人公のカールじいさんとエリーと彼らの家の過去から現在までを描写して感情移入させるシークエンスがあります。「タッチ」的な手法とも言えますね。

3 当然ながら、2009/12/05日本公開の「カールじいさんの空飛ぶ家」はキングの「IT」の影響を受けていると思われますけど、いかがでしょうか。
きっとみんな「ふわふわ浮かぶ」と思うよ。

因みに、「カールじいさんの空飛ぶ家」の原題は「UP」
これまた「IT」とそっくりですな。

きっと「IT」そっくりなシーンがあると思うよ。

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