訃報:ディノ・デ・ラウレンティス
2010年11月10日。イタリア出身の映画プロデューサー ディノ・デ・ラウレンティスが亡くなった。
なお、ディノ・デ・ラウレンティスはスティーヴン・キング原作作品の「炎の少女チャーリー」と「デッド・ゾーン」、「地獄のデビル・トラック」、「ブロス/やつらはときどき帰ってくる」の製作総指揮を、「キャッツ・アイ」、「死霊の牙」の製作を担当している。
彼のフィルモグラフィーはコチラ(allcinemaonline)とコチラ(IMDb)を参照願います。
写真は、シドニー・ポラック(右)とディノ・デ・ラウレンティスの「コンドル」のコンビ。
【ローマ11日AFP時事】イタリアの代表的な映画プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティス氏(写真)が米ロサンゼルスで死去した。91歳だった。家族が11日、当地で明らかにした。
フェデリコ・フェリーニやロベルト・ロッセリーニといった名監督と組んで一時代を築いた後、米ハリウッドに移るなど、生涯で500本以上の映画を製作した。
1919年8月8日、ナポリ近郊生まれ。初期のプロデュース作品に「にがい米」(1949年)がある。56年には製作を担当したフェリーニ監督の「道」が米アカデミー賞を受けた。2001年には同賞の特別賞、アービング・G・タルバーグ賞を受賞。
米国に移ってからも、アル・パチーノ主演の「セルピコ」(73年)、「キング・コング」(76年)、「ハンニバル」(2001年)など多くの映画を製作した。 〔AFP=時事〕
こどもの頃、わたしの映画人性が始まった頃の話。
ディノ・デ・ラウレンティスの名前は魔法のような響きを持っていた。
デ ィ ノ ・ デ ・ ラ ウ レ ン テ ィ ス。 口の中で転がす異国の名前。
当時のわたしはプロデューサーと言う仕事が何をする仕事なのかは全く知らなかったが、その映画にラウレンティスの名前がクレジットされているだけでその映画は傑作に思えた。
わたしがそれほど映画にうるさくなかった時代の事である。
大人になったわたしにとってラウレンティスの名前は嘲りの対象となった。
でもぼくはラウレンティスの映画を愛している。
すばらしい映画を、そうでもない映画を、そしてくだらない映画をありがとう。
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