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2012年1月28日

「都市と都市」

■著者 チャイナ・ミエヴィル
■訳者 日暮 雅通
■出版社 ハヤカワSF文庫(早川書房)
■価格 ¥1,000(税抜き)

昨年の暮れ頃からだろうか…
私の周辺で、一斉にある本の名前が取沙汰され始めた。

そのタイトルは「都市と都市」

【おんなじ場所に都市がふたつあって】
【その都市はお互いに見えない】
【その見えない都市の間で、何と殺人事件が!】
【でも、SF】

ふうん… な、何だそれ? 全然想像がつかないんですけど?

ううむ… SF仕立てなんだから…

ふたつの都市が同じ場所にあるって云うのは、重なり合う平行宇宙がところどころで近接して混じり合っているのかな? 
それとも、地面の裏側にもうひとつ都市があるのかも?
反物質とか?(でも殺人…?)

とにかく、何か、とんでもない奇想に満ちた本なんだ!

SF好きの方々の「都市と都市」に対する論議も随分と活発で、すっかり興味を引かれた私は、早速、行きつけの生本屋【カッパ堂】にて、その本を手に取ったのである。

チャイナ・ミエヴィル「都市と都市」

何と、ヒューゴー賞/世界幻想文学大賞/ローカス賞/クラーク賞/英国SF協会賞… と主要なSF&ファンタジー文学の賞を総なめにしたとあるではないか。
賞を取った作品がだからと云って素晴らしいという訳でもないのだろうが、それにしてもすげえ。チャイナ・ミエヴィルは初読… 読む前からわくわくするじゃあありませんか!

物語はふたつの都市国家〈ベジェル〉と〈ウル・コーマ〉を舞台に展開する。
しかし、このふたつの都市はとんでもない状態でそこに存在する。
どういう訳か、同じ場所に混在しているのだ。

モザイク状に曖昧な境界線は〈クロスハッチ〉地区と呼ばれ、そこでは〈ベジェル〉と〈ウル・コーマ〉が接する状態になっているため、それぞれの都市の住人や建物、自動車などのオブジェクトが混在しているのだが、そこに暮らす人々は【敢て、お互いを”見ない”】と云う絶対的に厳格な決まり事の中で生活を送っているのである。

つまり、読む前に私が想像していたような所謂【SF的な前提に】よってふたつの都市が同じ場所にある訳ではなく、【物理的に】混在しているわけで…

まさに「なんだこりゃ?」なのである。

個人的な意見だけれど、これは、平行宇宙だの何だののSF的ギミックを使うよりも寧ろ、より一層SF的で殆ど誰もが考えた事もなかった奇妙で想像力を刺激する設定なのだ!

お互いにお互いを〈見ない〉。

勿論、人間、そんな事ができる訳がない。本作の中で、〈ベジェル〉と〈ウル・コーマ〉の人々は、その都市に住まう作法を身に着けなければならない。ちょっとした所作の違いや、服装の違いから瞬時に相手を〈仲間〉なのか〈そうでないのか〉を察知し〈見ない〉ようにする。生粋の〈ベジェル人〉や〈ウル・コーマ人〉は幼少より習い覚えた身の処し方を体得しているので問題なくその行為が出来るのだが、旅行者や移住者はそうはいかない。この都市に入る他国の住人は、ふたつの都市の特徴を覚え、〈見ない〉技術を覚えてからでないと入国出来ないという徹底振りなのだ。

そんな特殊な環境の中である殺人事件が起こる。

侵してはならない領域で〈見ない〉〈聞かない〉ようにしつつ行われる捜査が始まる。そして、ふたつの都市の間で闇に隠れて秩序を保つために目を光らせる秘密の組織〈ブリーチ〉と、伝説の都市〈オルツィニー〉をめぐって迷宮に絡めとられる主人公…

続きは読んでからのお楽しみ! 
このとんでもない世界観を持つふたつの都市の間を散歩するのは楽しいぞ!

ここからは私見。

この物語って、特殊な位置づけにあるふたつの都市の間に於ける都市論のようなものを、難しい【SFの理屈】を使って形而上的に衒学的に表現しようとしたものでは全くなく、どちらかと云うと、アメリカンコミックのような奇想天外な面白さを追求したものなんじゃないか。

と云うのも、このふたつの都市に住まうために行われている行為って、もしも、本当にこの都市の住人だったとしたらそりゃ大変かもしれないし、当事者だったらば真剣そのものかもしれないけれど、読者と云う客観的な立場に立ってみると、彼らのやっている事って滑稽でマンガっぽいというか… なんだか、その姿を想像してみるだに微笑ましくなっちゃうのだ。

都市間で発生した殺人事件の顛末が大きな陰謀の元に昇華するのか? と思いきや、結局は思いっきり卑近な所で小さくまとまって終わってしまうのも、日本の戦隊もので悪の秘密結社が幼稚園バスを襲っちゃう的な… そう云う気軽さがあると云うか… 

そして、最終的に主人公の刑事が辿り着くその先ときたら、まるで、業を背負ったアメコミのヒーローじゃないか!

この辺りは、是非、一読して確かめていただきたいものである。

ところで… これを読んで、思いついたことがひとつ。

西欧の言葉って、「誰」が「何をする」か… っていうのが凄く重要。

誰か(主語=動作主)が、ある動詞で表される行為を行う、という概念が非常に恣意的なものになっていて、だから、ふたつの都市では、誰かが〈見ない〉ということは【無】ではなく、まさに、それを〈見ない〉ということが至極意識的になされている。

そこでは、多分、〈見る〉という行為が意識的である以上に〈見ない〉という行為が意識的なのだ。これは、辛いんじゃないか。その辛さは、切実なんじゃないか。

そして、この感覚って、日本人にはピンと来ないものなのなんじゃないのか?

何しろ、日本人にとっては〈見る〉ことや〈聞く〉ことは自然発生的なもので、自然に目に入って来る=見る、であり、自然に耳に入って来ること=聞く… なのだから。

故に、日本人には〈見ないでいる〉ことも自然に何の努力もなく出来ちゃう。

それは、例えば、電車の中で衆人環視のもと、仲間内で大声で恥も外聞もなく赤裸々な噂話が出来ちゃったりとか、平気でフルメイクを始めちゃったりとか、という現象にも現れている。 自分にとって価値のないものや仲間ではないものだと判断した途端に、それが存在しないと決めつけることが自然に出来ちゃう…

私たち日本人はきっと、〈ベジェル〉や〈ウル・コーマ〉に入るための訓練を難なくこなすことが出来るに違いないと思うのである。

@unyue
@honyakmonsky

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