「猿の惑星」をめぐる冒険
故あって、ピエール・ブールの「猿の惑星」(1963)を読んだ。
わたしの「猿の惑星」(創元推理文庫)は、1975年6月の28版で価格は220円。と言う事は、わたしは「猿の惑星」をずっと前に買ったものの全然読んでいなかったことになる。
《アラン・バートン、ピート・バーグ、そしてゲイランの三人は、苦難に満ちた逃亡の道を歩き始める。 だが、三人の行く手には、必ず何かが待ち受けている。 ここは、猿の惑星なのだ》のナレーションでおなじみのテレビシリーズ「猿の惑星」のジョージ・A・エフィンガーのノベライズは「逃亡者人間」「明日への脱出」「疫病をやっつけろ」は読んでいるのだが、そもそものピエール・ブールの「猿の惑星」は恥ずかしながら読んだことがなかったのだ。
一読して驚いた。
「猿の惑星」に登場する猿たちは、知的で文化的な生活をおくっており科学水準も人類を凌駕しているのだ。
と言うのも、「猿の惑星」の物語の中盤以降、人工衛星(猿工衛星)に動物(人間)を乗せる計画が語られるところを見ると、われわれ人類の文明レベルと比較すると、ライカ犬を乗せたスプートニク2号が打ち上げられたのが1957年であるから、「猿の惑星」における猿たちは、おそらく1950〜1960年代の人類と同程度の文明レベルだと推測する事が出来る。
なぜこんな話をしているのかと言うと、どうしても映画「猿の惑星」(1968)と比較してしまう自分がいるのだ。
映画「猿の惑星」で描かれた猿たちは、ライフル銃を使ってはいるものの、洞窟のようなものの中で暮らしているところを見ると、人類における中世(5〜16世紀)の文明レベルのような印象を受け、猿は猿なりに文化的な生活をおくっているものの、暴力と権力がニアリーイコールな世界。そんな猿たちが支配階級にいる、比較的野蛮な世界観を観客に与えてしまっているのだ。
また、興味深いのはチャールトン・ヘストン演じる宇宙飛行士テイラー大佐もどちらかと言うと野蛮な人物として描かれている。
映画「猿の惑星」は、野蛮な猿の世界に投げ込まれた野蛮な人間テイラー、と言う構造を持っているのだ。
それと比較すると小説「猿の惑星」に登場する猿たちの文化的で科学的な姿には愕然とする。
もっとも、本作「猿の惑星」が文明批判をしている以上、物語構造上、猿が野蛮であってはいけないのである。
残念ながら映画「猿の惑星」はそのあたりについて配慮が足りないと言わざるを得ない。もちろんそのあたりについて意図的である可能性は高いが。
個人的には映画「猿の惑星」は映画史に残る素晴らしい作品だと思っているが、原作と比較すると残念な気持ちがする。
おそらくだが制作者サイドは、意図的に知的なアメリカより、強いアメリカに舵をきったのではないか、と思えてならない。これは1968年と言う時代背景がそうさせている可能性が高い。
また、もう一点興味深いのは、本作「猿の惑星」の物語の構造は、所謂ブックエンド形式で、かつ叙述トリックが採用されている点である。
物語の冒頭、レジャーとして恒星間旅行を楽しんでいる2人の恋人たちが、その旅行中に宇宙空間を漂うひとつの瓶を見つけ、その中に、われわれが知っている「猿の惑星」の物語を記した手記が入っていた、と言う構造を持っているのだ。
そこでは、映画「猿の惑星」に存在する《英語問題》について、登場人物の1人が地球に留学していた経験があるため、地球の言語をマスターしている、と言う設定で物語が描かれている。そして2人の恋人たちの一方が、他方に「猿の惑星」の手記を読み聞かせる、と言う構造をもっているのだ。
そしておそらくだが、小説「猿の惑星」における地球の言語は、英語ではなくフランス語だと考えることができ、その場合、この小説がフランス語で書かれている点に大きな意義を感じる。
つまり、「猿の惑星」の物語では、地球の共通言語は英語から、何らかの事由でフランス語に変わっている、と言う背景を読み取る事ができる。
これは「猿の惑星」の物語にとって大きな意義がある。
また叙述トリックの内容については、趣向を削ぐので解説はしないが、エピローグにあたる部分で非常に興味深い描写が楽しめる。
尤も、「猿の惑星」が採用している叙述トリックは、レベルとしてはあなり高度ではなく、注意深い読者なら早いタイミングで、もしや、と思うと考える。
そんな訳で本作「猿の惑星」は、今読んでも大変面白く、大変興味深く、いろいろと考えさせる作品だと言える。
今更だが、関心がある方は是非、ご一読いただきたい。
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